やね日記

或る大阪在住Mac使いの道楽な日々

「わが国の歴史は、人物像を善と悪にきめつける弊がある」

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今、日経の連続小説はあの池宮彰一郎先生が書かれている「平家」という作品なのですが、今日の日経では表題のような下りが書かれていました。

この「平家」という作品は、これまでの平清盛観を覆すものなので、結構興味を持って読んでいます。従来の藤原摂関政治律令体制を打ち壊す改革者としての平清盛像ですね。今までには少なかった視点だと私は思います。



久々に歴史の話を少し。



歴史上の人物を単純に善と悪に分けることは出来ないと思います。強いて善悪を分けるとすれば、それは一人の人物が行った行為についてであろうと思います。

しかもそれらの見方も各人によってばらばらであり、絶対的な善悪というのはなかなか区別出来ないと思います。



例えば、明の太祖洪武帝朱元璋)を挙げてみます。

彼は裸一貫から至尊の地位へと上り詰めました。そして元朝末期の戦乱を収め、国家制度を確立し大陸に安定をもたらしました。

しかし一方では皇帝による独裁制をしき、丞相職や大将軍職を廃止し、功臣たちを次々と粛清しました。臣下の力が強大になるのを防ぎ、早期に叛乱の芽を摘む為です。



「蓋(けだ)し明の太祖は一人にして聖賢、豪傑、盗賊を兼ねたり」

清代の史家趙翼が洪武帝をこのように評したのも、これらの事実に基づいています。



前者では善人、後者では悪人と評すのは簡単です。

ですが彼の存在は、人を単純に善悪で捉えるのは難しいという事実を如実に物語っていると思います。

歴史は人々の物語といった側面も持ちますが、善悪と言う主観的な価値観を持ったままで人物を見るのは、歴史を学ぶ上で自ら視野を狭くしているのと同じで、とても勿体ないことだと私は思うのです。



自戒でもあるのですが、たまには一度、今までの思い込みをリセットするといったことも必要なようです。