やね日記

或る大阪在住Mac使いの道楽な日々

白紙投票は究極の意味では白紙委任でしかない

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権利を履行しない人間は、その権利を剥奪されても文句は言えない。
民主主義社会における政治については、私は特にそのように考えます。
なぜならば民主主義社会においては、あらゆる政治の結果の責任は有権者たる国民が全責任を負うと考えるからです。

自分たちの意に添わない政治が行われている状況に対して文句を言うのは自由だと思います。
ですが、文句を言う人に対しては、そのような状況を少しでも変えるような努力を今までやってきたのかという事を問いたいと思います。
これまでにも、「少しでもましな」立候補者に投票する自由はあったと思います。
そのような立候補者がいなければ、自らが立候補をする自由もあったと思います。
結局は、自分の意に添わないという一事だけで、少しでも状況を変えようとする努力から逃げているだけではないのでしょうか?

このように書けば、「民主主義社会って、すぐには自分の意のままにならない社会なのか」という感想を持つ人がいると思いますが。
それに対しては「当然です」としか申し上げる事が出来ません。
何故ならば、「一人の天才の知恵」よりも「万人の普通の人々の知恵」を大切にするのが、民主主義の理念だからです。言わば、「三人寄れば文殊の知恵」の世界ですね。
当然ながら、多くの人間がわいわいがやがややっていくわけですから、時間はかかります。
ですが、時間をかけて多くの人の知恵を集めて行くからこそ、ゆっくりではありますが多くの人々が望む方向へと社会が向かって行くと先人たちは考えたわけです。

そしてまた、「一人の天才」あるいは「複数のエリート」が政治を引っ張ったことによる悲劇は、これまでの歴史においても見事に証明されています。フランス第二帝政しかり、ナチス・ドイツしかり、そして我が国の戦前の軍部独裁しかり。
これらに共通することは、自らの代弁者を選ぶ自由がある人々は、決してこう言った少数の人々に白紙委任を与えてはいけないということです。何故ならば、白紙委任を与えるという事は、おおげさな言い方ですが、自らの生殺与奪の権利を彼らに与えている事に等しいからです。
そしてまた、白紙投票も究極の意味では白紙委任に等しいと考えます。
理由は、自らの代弁者を選んでいないからです。
代弁者の意見と自らの意見が100%一致しないのは当然でしょう。人はそれぞれ自分の意見を持っており、他人と100%全ての意見を同じくするのはありえないのですから。
ですが、ここで重要なのはそのような最上級の思考よりは、比較級の思考だと思います。
つまりは、どれほど自分の意見に「より近い」かを考える事だと思います。
様々な意見はあるかと思いますが、今のお年寄りの世代の多くは常にそれを考えて選挙で一票を投じてきました。
だからこそ、今の既得権益を享受しているのだろうと思います。

裏を返せば今の状況は、若い世代、特に三十代の若者が自分たちの代弁者を選ぶことを怠った結果であると思います。
民主主義社会においては、自らの権利を行使しなかった者にはそれ相応の対価を与える。
その対価が今の状況であると私は考えます。
今の状況を少しでも変えたいならば、少しでも自らの代弁者になり得る人物を選び続けるべきです。
時間はかかるでしょうが、世代としての意志を示し続けることがやがては力になると思います。
斜に構えて、白紙投票という名の白紙委任を続けていても、結局は何も変わらないと私は思いますね。