やね日記

或る大阪在住Mac使いの道楽な日々

信仰心と器としての宗教と

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確かに我が国において無宗教と称する人々は多いですね。
その理由は、「宗教」という器に対する不信感があると思います。
その不信感とは、カルトに対するものであったり、信仰を押し付けようとする従来の特定の宗教団体に対するものであったりと千差万別ではあります。
故に、宗教団体に所属していることを前面に出すことで社会的にマイナスのイメージを持たれるよりは、無宗教と言う事で面倒を避けようと考える人は多いのかもしれません。

ただ、この考えは国内であるからこそ通用する考え方であって、海外では通用しませんね。
海外へ渡航された方ならお分かりになると思いますが、諸外国、特にイスラム教やキリスト教などの一神教の国々において「無宗教」を称することはタブーです。
下手をすると人間扱いすらされない場合もあります。

たとえば、商社マンA氏は入国に査証を必要とする某イスラム教国へ行くことになり、査証申請書を出したところ、うっかり「宗教」という欄に「なし」と書いたため、「無神論者を入国させるわけにはいかない」と拒否されてしまった。
また、同じく商社マンのB氏は、それほど戒律が厳しくなく、酒も自由に飲めるイスラム教国で、空巣狙いに入られてしまった。そして、すぐ警官を呼んだのだが、調書をつくる段となって、自分の宗教を聞かれた時、うかつにも「なし」と答えてしまった。すると、警官は、「無神論者の物を盗んでも泥棒にはならない」と言って帰ってしまったそうである。
(大島直政著・ケマル・パシャ伝より抜粋)

このように、けだものに等しい存在として扱われることも少なくありません。
これは、宗教を文化の一部として意識しているかいないかの差なのではないかと思います。

これらの根底にあるのは、宗教そのものを学ぶ機会が少ないこともあるのではないかと思います。
知らないが故に、宗教に対するアレルギーを持っているのではというところかと。
ただ、その「宗教を学ぶ」というのは、何も教義を学ぶとか神学を学ぶなどと言った意味ではありません。
人類とともに宗教が歩んできた歴史や、宗教が人類やその文化に与えた影響などといった、宗教と人類との関わりを学ぶ機会が少ないのかなと思います。
それは、おそらくは戦後の厳格な政教分離の考え方が影響しているのでしょう。

ただ、宗教と人との関わりを知らなければ、宗教に対する関わり方もよく分からないと思います。
関わり方が分からなければ、安易にカルトや神秘主義に耽る可能性も高くなりますし、知ると言う行為はとても重要なことではないかと思います。
まあ、教育を進めるためには、前述した宗教に対するアレルギーを超えないと行けないわけですが。
そう考えると、結構難題なような気もしますね。