やね日記

或る大阪在住Mac使いの道楽な日々

「義憤」が自分を不幸にする可能性

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今回の川崎の事件でも「義憤」からネット上で私的制裁に走る人たちがいるようです。
被害者に加えられた酷い仕打ちに対して「義憤」を感じるのは、人として当然だとは思いますが、私的制裁に走るのは筋が違うと思います。
本来、犯罪を訴追し処罰するのは国家の権限であり、処罰に対して不服があれば国家に対して申し立てるのが筋であると思います。感情に任せて私的制裁に走るのは、正に不法行為でしかありません。

 −−キクチさんの事件では検挙された加害者から誰一人謝罪が無かったという話もありましたね。「責任」という言葉とつながります。

 スマイリーキクチさん 検挙された方々はみんな普通の社会人で、それなりの社会的地位の人もいました。しかし、検挙されても謝罪よりも被害者意識の方が強いようです。「私は悪くない」から始まって、最初は「犯人が憎い」「許せなかった」と言いますが、なぜ自分がやったかと問い詰められると、「ネット上の情報にだまされただけだ」「最初にウソを書いたやつが悪い」「みんなやっている人がいる。何で自分だけ」。そして「私もストレスを抱えてつらい」……。

上記の記事の中のこの一文が、私的制裁に走る人の心理の一つを象徴しているのかなと思います。
いわゆるいじめの構造と何ら変わることがないんですよね。他に責任を転嫁し、自分は正しいことをしたと言い張るだけ。
安っぽい正義感ほど、始末に負えないものは無いというところでしょうか。

検索サイトやSNSの普及などで、ネット上での文章が長く残る上に独り歩きする危険性も高まっています。
「義憤」から意見を発することも大切な事だとは思いますが、一時の「義憤」が取り返しのつかない事にならないように注意はしたいものです。
自戒も込めて。