やね日記

或る大阪在住Mac使いの道楽な日々

ノルマルク戦史

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たまたま本屋を物色していると、中公CNOVELSファンタジアで、赤城先生の上記の作品を見つけました。

で、読んでみるとドイツ(と言うか北欧かな)の雰囲気が出ていてなかなかよかったです。続きをまた買おうかな。

ちなみにドイツという国ないしは地域は、中世では神聖ローマ帝国という国家であったことは、歴史の授業でご存じの方も多いと思いますが、その帝国とは名ばかりの諸侯国の連合体を支えていたのが、いわゆる選帝侯と呼ばれた大諸侯たちでした。
もともと選帝侯という身分が明確に定められたのが、第30代神聖ローマ皇帝カール4世によって1356年にニュルンベルク帝国議会で発布され、メッツの帝国議会で補正された金印勅書によってであり、それによって7人の大諸侯が選帝侯とされました。
すなわち、ベーメン王、ライン宮中伯ザクセン公ブランデンブルク辺境伯の4名の世俗諸侯とマインツ大司教、トリーア大司教ケルン大司教の3名の聖界諸侯の7人です。聖職者が諸侯というのもおかしな話ですが、当時の高位の聖職者は広大な領地を所有する大領主でもあり、また、聖職者は文書の作成に長じていたこともあり、フランク王国の時代から国家運営に携わってきたという経緯もありました。(ちなみに3大司教に与えられた名誉称号が、帝国大書記長(ライヒスエルツカンツラー)であり、この言葉が転じて首相や宰相という意味の言葉になりました。)

ちなみに4人の世俗諸侯にも名誉称号があります。すなわちベーメン王は帝国大主酒頭(ライヒスエルツシェンク)、ライン宮中伯は帝国大内膳頭(ライヒスエルツトゥルフゼス)、ザクセン公は帝国大元帥(大主馬頭・ライヒスエルツマルシャル)、そして最後にブランデンブルク辺境伯は帝国大官房長(大内蔵頭・ライヒスエルツケメラー)とされており、皇帝選挙後の戴冠式でこの4名の大諸侯は、それぞれの「役職」に応じた儀式にのぞみます。

ところでライン宮中伯の宮中伯という称号は、ドイツ語ではプファルツグラーフと読みます。現在、ドイツの西部の州であるラインラント・プファルツ州は、当時そこを支配していたライン宮中伯の呼び名に由来するわけです。地位が地名になった珍しい例ですね。

なんか表題から全然ずれてしまいましたが。(苦笑)
私はヨーロッパ史の中でも、特にドイツ史が好きなので、ついついこのように脱線してしまいますね。