サイコロきっぷの旅・第1回へ
今月9月4日の日曜日に、サイコロきっぷを利用して舞鶴へ日帰りの旅をしてきました。
遅くなりましたが今回の旅の感想を書いておこうと思います。
まずは自宅から近鉄奈良線に乗り、鶴橋駅で乗り換え。
乗車券が「大阪市内」出発になっていたので、わざわざ大阪駅までのきっぷを買わずに済んで良かったです。
東舞鶴駅に到着
鶴橋駅からはJR大阪環状線とJR京都線を乗り継いで京都駅へ。
京都駅で同駅始発の特急まいづるに乗り、JR山陰本線からJR舞鶴線を経て東舞鶴駅に到着したのは10時過ぎでした。
自宅からはほぼ3時間の鉄道の旅でしたね。
サイコロきっぷで東舞鶴は一番割引率が低かったのですが、この一日乗車券「もうひとつの京都周遊パス・海の京都エリア」を購入することで結構お得になりました。
京都から舞鶴までのJR乗車券と特急券を持っていると2,000円割引の200円で購入できるきっぷで、京都丹後鉄道や京都交通バスなどが乗り放題のかなりお得なきっぷでした。
割引での購入期限が当日9月4日までだったので、間に合って良かったですね。
東郷邸(旧舞鶴鎮守府長官官邸)
今回の舞鶴観光は東舞鶴を中心に行ってきました。
まずは東郷邸から。
元は旧帝国海軍舞鶴鎮守府の司令長官官邸で、初代司令長官があの東郷平八郎元帥海軍大将だったのでこの名称がつけられているそうです。
開館日が毎月第一日曜日だけだったので、日を合わせて訪ねてきました。
東郷邸内はほぼ和風で手狭な印象を受けました。質実剛健を旨とした旧帝国海軍らしいと思いました。
東郷邸と名付けされているだけあって、東郷元帥ゆかりの写真や品々が多く展示されていました。
展示されていた写真の中で、個人的に気になったのがこちらの写真でした。
昭和天皇の左側を写る人物に既視感を感じたのですが、東郷邸を案内している方に聞くと予想通り鈴木貫太郎海軍大将その人でした。
戦艦陸奥の艦上で撮影されているので、おそらくは昭和2年10月に行われた海軍特別大演習の時の写真で、鈴木大将が海軍軍令部長時代に撮影されたものと思われます。
侍従長時代に近侍していた姿は良く知られていますが、海軍時代の2人の写真は珍しいと思いながら見ていました。
海軍記念館
東郷邸を後にして、次は道路を隔てた南側にある海上自衛隊舞鶴地方総監部へ足を伸ばしました。
目当ては舞鶴地方総監部内にある海軍記念館。
この建物はもともと旧海軍機関学校の大講堂として利用されていたものだそうです。
レンガ造りのレトロな建物でした。
海軍記念館では、幕府海軍以来の旧帝国海軍の歩みや旧舞鶴鎮守府関連の写真や資料が多く展示されていました。
こちらは旧舞鶴鎮守府の歴代司令長官一覧です。
初代の東郷元帥からそうそうたる名前が並んでいました。
その中には、鈴木貫太郎海軍大将の後を受けて昭和天皇の侍従長になった百武三郎海軍大将の名前もありました。
海軍記念館の大講堂はもともと旧海軍機関学校のものだけあってアカデミックな雰囲気でしたが、内部は思ったよりも新しい感じでした。
舞鶴地方総監部の銘もあったので、こちらは今も使えるようにリノベーションがなされていたようです。
太平洋戦争開戦時の電文の写しも公開されていました。
有名な「ニイタカヤマノボレ 1208」の電文ですね。
右側に書かれている「GF」は海軍内の連合艦隊の略称で、Grand Fleetの略だそうです。
海上自衛隊北吸係留所(北吸桟橋)
昼食を挟んで、午後からは護衛艦などが停泊している北吸桟橋へ足を伸ばしました。
ちょうど一般公開されている時間帯だったので、桟橋内を見学することが出来ました。
桟橋には護衛艦2隻と補給艦1隻が停泊していました。
西側には手前から護衛艦あたごと護衛艦あさぎりが。
艦上では自衛官たちが訓練を行っていました。
桟橋の東側には補給艦ましゅうが。
この艦艇は昔に舞鶴を訪れた時にも見かけた記憶がありました。
その時には護衛艦ひゅうがの巨大な勇姿も見ることができたのですが、今回は姿がなかったので少し残念でした。
西舞鶴駅から丹後田辺城跡へ
東舞鶴の自衛隊施設を訪ねた後は少し時間があったのでバスで西舞鶴駅に向かいました。
古くからの城下町の西舞鶴と近代に軍港として整備された東舞鶴。
同じ舞鶴でも街の雰囲気が全然異なっていて趣深かったですね。
時間が限られていたので、西舞鶴駅から北に歩いて丹後田辺城跡だけを見物してきました。
丹後田辺城は別名「舞鶴城」と呼ばれ、舞鶴という地名の由来となったゆかりの城です。
丹後田辺藩3万5000石の政庁でもありました。
復元された城門の上には資料館があり、細川幽斎の木像がありました。
丹後田辺城と言えば、個人的にはやはり細川幽斎ですね。
関ヶ原の合戦の一環として行われた田辺城の戦いで、幽斎は東軍方として田辺城に立てこもり西軍を相手に奮戦していました。
ところが、幽斎自身が古今伝授の継承者であったことからその断絶を惜しんだ後陽成天皇の命で勅使が派遣され、戦いを止められる羽目になりました。
和歌を大切にする我が国らしいエピソードだと個人的には思いましたね。